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牛久城跡は、戦国時代の東国の城跡としての遺構を今も残している。この城は、岡見氏が築城したものであるが、戦国末期に岡見氏が従った後北条氏(小田原の北条氏)の築城技術が取り入れられている。下の城図面は、筆者が江戸初期に描かれた絵図をもとに、外形と遺構図を変えずに遺構図を作成したものである。これを中心に、牛久城遺構の特長を記す。
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| 1) |
枡形虎口 |
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由良国繁が牛久城主であった時代の虎口(出入口)は、城中入口にある大手門と、牛久古城の入口にある木戸口、牛久沼に下った根小屋にあった搦手の3ヵ所があり枡形の虎口になっている。枡形虎口は、後北条氏の築城の特長を示すもので、これら3ヶ所は、堀と土塁を使った大きな木戸で頑強なものになっている。
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| 2) |
土塁と櫓 |
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牛久城跡は、城全体が堀と土塁で囲まれている。本丸と二の丸のある古城跡は、竹林になっているが、高さが10m以上もある土塁跡が今も残されており、頑強な城跡であったことがわかる。土塁の上を歩いてみると、所々に櫓跡が残されている。
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| 3) |
空堀と縦堀 |
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牛久古城の本丸と二の丸の所には、深い空堀がある。廃城になってから400年以上の年月を経ているので、土塁が崩れたりして土などが堆積しているので、現在よりも更に3m〜5m位深い堀であったと考えられる。木戸口と二の丸の間には、三重堀跡があり壮観である。堀底は、後北条の城の特長である畝(うね)堀と思われる跡が見られる。 又、二の丸の奥には、4重の縦堀(土塁の横を縦方向に堀切ったもの)跡が見事に残っている。牛久城は、発掘調査が行われていないが、掘底には、落とし穴も作られていたのでなかろうか。
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| 4) |
土橋と木橋 |
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二の丸に通じるところにある空堀には、土橋がかかっている。岡見氏の時代には、取り外しが可能な木橋であった可能性もあるが、下の絵図面の描かれた由良国繁時代には、土橋であったものと見られ、脇の土塁上には、櫓台の跡があったものと思われる。本丸と二の丸の間には、空堀があり、岡見氏の時代には、木橋がかけられていたかも知れない。
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本丸と郭 |
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牛久古城の突端部分が本丸跡と思われるが、二の丸の場所が本丸であったとする意見もある。本丸と二の丸は、戦時中、畑になっていたが、現在は竹林になっている。ここからは、焼米が出土したと云われており、攻撃で焼かれた為と思われる。 |
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牛久城遺構図(UshiQネット管理人作成)
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このホームページは、牛久市中央に住まう私達家族が作成しています。 |
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