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江戸時代の牛久宿は、水戸街道の宿場町として旅籠15を含む124軒の町並みだった。江戸と水戸をつなぐ街道は、公式には水戸道中であるが、一般には水戸街道とも呼ばれている。土浦藩主が参勤交代の際に描いたとされる絵図が水戸の県立歴史館に展示されている。牛久宿には、本陣と呼ばれる大名が泊まる宿が上町の農協のところにあった。街道には、一里ごとに塚が築かれており、市内には成井一里塚と田宮一里塚と東猯穴一里塚の遺跡が残っている。牛久宿は、江戸時代に整備された宿場であるが、由良国繁が牛久城主であった秀吉時代の絵図に牛久宿が描かれている(龍ヶ崎市史別編2)ことから、岡見氏の戦国時代には城下町として形成されていたことが考えられる。
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牛久宿絵図(県立歴史歴史館蔵)
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牛久藩主は、参勤交代で毎年2月に水戸街道を牛久へ下り、8月に江戸へ上っていた。藩主の山口氏は、午前2時頃に陣屋(城中のカッパの碑のある場所)を出発し、途中、葛飾区の新宿(にいじゅく)に宿泊し、翌日、赤坂溜池の江戸上屋敷に到着した。中川の手前にある新宿は、小さな宿場で本陣が無い。
筆者の想像であるが、山口氏は、新宿のある中川の渡しの辺りに藩の屋敷があり、牛久からここまでは少人数で行き、江戸屋敷(上屋敷と下屋敷)からも藩士が迎えに来て合流し、ここから参勤交代の行列で日本橋を通って赤坂溜池の牛久藩邸まで歩いたのではないかと考える。
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このホームページは、牛久市中央に住まう私達家族が作成しています。 |
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