観音寺のあゆみ

  

  

1.信太荘の時代

 
 平安時代の終わりころ、土浦市、つくば市の南部から牛久市や阿見町の東部、そして江戸崎町の西部にいたる地域に信太荘と呼ばれる荘園ができました。仁平元年(1151)、池禅尼(「平家物語」で有名な平清盛の継母)が、天皇家にこの地域を寄進して誕生した荘園です。文治元年(1185)、源頼朝は諸国に守護・地頭を配しますが、信太荘には八田知家(小田氏の祖)が地頭として配されたと思われます。ただ、この地頭職も鎌倉時代の終わりころには北条氏(得宗)の関係者が多くなっていきます。

 観音寺本堂観音寺が創建されたのは、この信太荘の時代、嘉禄2年(1226)とされます。しかし、誰が創建したかは不明です。おそらく十一面観音菩薩を信仰する久野郷の荘官か地頭によって創建されたのでしょう。政治的には鎌倉幕府が、承久の乱(1221)をきっかけに、全国に強大な権力を持つようになったころです。また、文化的には親鸞の浄土真宗や道元の曹洞宗などの鎌倉仏教が起こったころでもあります。

信太荘は、鎌倉時代の終わりころ、文保2年(1318)、天皇家から京都の東寺(教王護国寺)に寄進されます。しかし、南北朝の動乱を迎えるなかで東寺の支配は衰退していきました。
  

2.土岐氏の時代


南北朝の動乱を経て室町時代に入ると信太荘は、足利尊氏の重臣であり、関東管領の上杉氏(山内上杉氏)の支配下に入りました。応永23〜24年(1416〜17)の上杉禅秀(犬懸上杉氏)の乱における戦没者供養のため、同24年に上杉憲基によって鎌倉の円覚寺に寺領が寄進されましたが、そのなかにこの久野郷も含まれています。これが史料にみられる久野郷の最初の例です。

さて、この地域に釆て直接支配にあたったのが、土岐原氏、近藤氏などの山内上杉氏の家来たちです。なかでも土岐原氏は「信太荘惣政所」という職権を生かして少しずつ勢力を伸ばしていきました。さらに、土岐原氏の勢力拡大のきっかけとなったのが、大永3年(1523)の八代合戦(龍ヶ崎市)です。信太荘をめぐって筑波の小田氏と対抗したわけですが、この合戦に勝利した土岐原治頼は、信太荘を支配する布石を得たのです。そして、大永5年(1525)、治頼は観音寺本堂の再建を行いました。これが土岐氏と観音寺の最初のつながりのようです。以後、土岐原氏は江戸崎に拠り、土岐氏と改姓して、その勢力を東条荘(江戸崎町東部から桜川村、東村一帯)や河内郡の一部(龍ヶ崎市北部)にも拡大しました。そして、東条氏や金剛寺氏など在地の領主たちも家来としていきました。

土岐氏は治頼の子、土岐治英の時代には小規模ながら戦国大名として常陸の戦国史を飾る一族になりました。治英は子の胤倫を竜ヶ崎域(龍ヶ崎市)に配して南の守りとしました。久野郷にも一族の土岐原越前守を配しています。永禄2年(1559)には、この越前守と久野郷の野口氏など地侍層を中心に観音寺の修復が行われています。しかし、この頃より関東地方の動乱も越後(新潟県)の上杉謙信と相模(神奈川県)小田原の北条氏康という二大勢力の抗争を中心に展開するようになりました。関東地方の戦国大名たちもどちらかの勢力に結びついて一族の安全を図りました。常陸では太田の佐竹義重が上杉謙信と結び北条氏と対抗しましたが、それと併せて常陸国守護の立場から常陸南部にも勢力を拡大しようとしました。そこで、土岐氏は筑波の小田氏と共に北条氏と結び佐竹氏に対抗するようになったのです。

天正年間に入りますと佐竹氏の南下は厳しさを増します。天正元年(1573)には小田氏方の戸崎城、宍倉城(共に出島村)を落とし、同6年(1578)には木田余城(土浦市)を占領しました。そして、同11年(1583)、小田氏は佐竹氏に降伏しました。さらに、佐竹氏と結んだ下妻の多賀谷氏も土岐氏、小田氏と結んだ岡見氏を攻略していました。この間、久野郷は軍事的に極めて緊張していたわけです。その最中である天正5年(1577)、土岐治英は土岐越前守と共に観音寺の修復を行っています。この修復は久野郷の人々に対する信仰的な安心感をもたせる意味もあったと思われます。

しかし、情勢は土岐氏に傾きませんでした。天正18年(1590)、豊臣秀吉による小田原征伐によって北条氏は滅亡しました。そして、北条氏に味方した戦国大名たちも共に没落してしまいました。土岐氏も江戸崎、龍ヶ崎の拠点を追われ、その支配の歴史を閉じることになりました。同時に観音寺は土岐氏という外養者を失うことになりました。
  

3.内藤清成の時代

土岐氏が信太荘を追われた後、江戸崎に入ったのが、佐竹義重の子、芦名盛重です。芦名氏の時代には太閤検地が行われ、信太荘は信太郡となり、東条荘は河内郡に編入されました。しかし、芦名氏の支配は極めて短く、慶長5年(1600)の関ケ原合戦には、兄の佐竹義宣が石田三成に誼を通じながらも東西のどちらの軍にも加わらなかったため、同7年(1602)、徳川家康によって共に秋田へと移されてしまいました。

芦名氏の後、江戸崎に入ったのが内藤清成という人物です。清成は検地奉行として、江戸幕府の支配の基礎を築くため各地に検地を行っています。その清成は慶長12年(1612)、家来の楠織部と共に観音寺の修復にあたっています。この時期、徳川氏の権力は確立の道を歩んでいましたが、戦国時代の名残は簡単には消すことができず、大阪では一大名ながらも豊臣氏が社会的な影響力をもっていました。清成による修復は世情の不安定ななかにあって、江戸幕府の権威を知らしめる目的があったはずです。

 観音寺は戦国時代のおわりのころより、逢善寺(新利根村)の末寺になっていました。さらに、江戸幕府は各宗派ごとにビラミッドのような上下関係を作り、寺院の支配を行いました。以後、観音寺は内藤氏、久世氏などの大名の支配と共に、逢善寺の統制下に入ることになりました。
  

4.鳥羽藩の時代

元和から寛永のころ、清成の弟である内藤忠重が鳥羽藩(三重県)の藩主となり、久野村を含む信太郡の幾つかの村が飛び地となりました。鳥羽藩領久野村の誕生です。忠重は観音寺に対して様々な援助をしています。寛永7年(1630)の本尊・十一面観音座像の修復、寛永19年(1642)には宮殿を再建しています。忠重のこうした援助は、本領の鳥羽からあまりにも遠い久野村に対して領主の存在を村民に明らかにする意味があったとみられます。

続く、鳥羽藩主の内藤忠勝は、延宝4年(1676)に久野村鹿島神社の修復を、同6年(1678)には、観音寺本堂の修復を行っています。しかし、鳥羽藩の支配も長くは続きませんでした。同8年(1680)に忠勝は芝(東京都港区)・増上寺で他の大名に斬りかかる事件を起こし、そのため内藤氏は断絶してしまいました。観音寺はまたしても有力な外護者を失ったのです。
  

5.関宿藩の時代

現在の大庄屋の宅宝永2年(1705)、久世重之は関宿藩(千葉県)の藩主となり、鳥羽藩の時と同様に久野村を含む信太郡の幾つかの村が関宿藩の領地となりました。久世氏は老中など江戸幕府の要職を務めた家柄です。久野村には信太郡における関宿藩の支配の中心地として周辺の村々をまとめる「大庄屋」がおかれました。

 さて、観音寺はおそくても元禄15年(1702)から本堂再建のための寄付を各地に求めていました。江戸時代に入ると、大名や領主が全て資金を出すのではなく、農民たちも少しずつ資金を出して、それを修復費などに当てるようになっていきました。観音寺の場合でも慶長年間からその兆しがみえてきましたが、時代が過ぎるにしたがって、その傾向は強くなっていきました。そして、宝永3年(1706)から翌4年にかけて再建工事は行われましたが、この時には信太郡の村々はもとより、遠く現在の猿島郡、結城郡及び千葉県の方面からも寄付が集まりました。現在の観音寺本堂の大部分はこの再建工事によるものです。さらに、仁王門も本堂の古材を利用して建てられました。

関宿藩と牛久の飛地 久世氏の支配は明治維新まで続きます。その間、亨保18年(1733)には久世暉之が、宝暦2年(1762)には久世広明が中心となって本堂の屋根替え工事を行っています。また、寛保2年(1742)には暉之を中心に梵鐘が寄進されています。この鋳造に際してその材料となる銅製の鏡を寄付している女性も少なくありません。
 さらに、久世氏に直接関係なく久野村の農民によって寄進されたものもあります。例えば、亨保12年(1717)には護摩堂(現存せず)が、翌年にはそこに安置する不動明王像が造られています。これらは観音寺において観音信仰のみならず、不動信仰が盛んだったことを意味すると思います。

 また、時代と共に観音信仰にも新しい型がみられるようになります。板東・秩父・西国の百方所の観音霊場を巡礼する農民も宝永のころからみられるようになりました。その巡礼の達成したことを示す額が何枚も観音寺に奉納されました。さらに、観音寺は「常陸西国三十三札所」という観音巡礼の第十七番札所に選定され、現在の茨城県の南西部の地域の人々が巡礼に訪れるようになりました。これは観音寺が江戸時代の中頃から広く民間に開かれた寺院になっていった事を意味します。
  

6.明治以降の観音寺

 
 幅広い信仰を集めた観音寺でしたが、文政12年(1829)の屋根替え工事を最後に寺は衰退の傾向を見せます。江戸時代も19世紀に入りますと、農民の没落や飢饉の影響で農村の荒廃は著しくなります。各地で農民一揆や村方願動が激化するのもこのころからです。久野村周辺でも文化元年(1804)には「女化騎動」と呼ばれる助郷一揆が起きるなど社会情勢は極めて不安定でした。農民の疲弊はそのまま観音寺の経営を困難なものにしたとみられます。事実、観音寺の住職がいなくなり、本寺である逢善寺が管理した時期もありました。こうした時代にもなんとか生き残り明治維新となりました。

 新しい時代となり、観音寺も再び住職を迎え、久野村の村人も観音寺を盛り上げていこうとした矢先、新政府は神仏分離を推進するなかで観音寺のような祈願寺院は廃寺する命令を出しました。しかし、住職や村人達は嘆願を続け、檀家をもつ菩提寺院にすることで観音寺の廃寺を避けることができました。こうした動きが今日の観音寺の母体をつくりました。

 そして、明治、大正、昭和という時代を過ぎました。境内には日露戦争や第二次世界大戦の戦没者の慰霊碑もあり、この地域の人々の激動の足跡を伝えています。また、昭和18年(1943)には、寛保2年に鋳造された梵鐘が戦時下の金属不足を補うため供出されたのも大きな歴史的試練でした。現在、広く静寂な境内のなかに深緑は豊かに、紅葉は鮮やかに、四季の草花は可憐に咲き、訪れる人々の心を慰めます。しかし、この佇まいのなかにも確かに観音寺は数有年の間、重い歴史を背負ってきたのです。そして、時代を駆けぬけ、幾度となく繰り返されつづけた人々の喜怒哀楽、そして祈りを見つめてきました。
  

この「観音寺のあゆみ」の筆者は、飛田英世氏です。観音寺が配布しています。

筆者紹介:

飛田 英世(とびた ひでよ)
昭和34年(1959)、勝田市生まれ。
昭和58年(1983)、國學院大學文学部卒業
現在、茨城民族学会、茨城地方史研究会各会員
  
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