わたくしどもの部落

牛久町老人クラブが昭和58年に作成した「郷土のあしあと」を紹介するものです。


  

【小野川】
 「筑波の南、霞ヶ浦の西、小野の流れの清む所」と旧岡田村歌の通り私共三部落(上太田、結束、岡見新田)は、小野川によって生かされ今後も又生かされるであろう。昭和二十八年の河川改修までは各部落の地先には夫々河岸場の地名があり、その面影も残っていた。米や麦、材木などは伊佐津河岸を通して遠く江戸に送り、江戸より必要な物資を運ばれた。水を湛えるため川は曲りくねり大雨で川は常時氾濫し、胸までつかっての登校は私共の新たな思い出である。昭和四十六年第二次改修によりカーブも緩やかになり基盤整備によって一アール未満の多くの水田も一筆三十アールとなる。小野川の水は機場を通してこれ等美田に注ぎ、今後も又末長く潤すことであろう。

【結束八軒、馬十六頭】
 天正年間(390年前)小田原城主北条氏に従属していた岡見城主弾正氏も豊臣氏が北条氏を滅すや、やがて岡見城主も没落して多くの家臣は四散し、内八名は結束の地に居を構え、一戸二頭づつの馬を飼育し、主家の再興一朝有事に備えたと云う、武士の誉れ高き語り草である。高嶋利衛門、高嶋伝仁門、高嶋長左衛門、高嶋源兵衛、石山長兵衛、石山儀左衛門、沼田八衛門、塚本滝衛門の八戸で、元の部落は現在の中間で小野川沿えに位し元屋敷、問屋敷の地名がある。其の後上坪下坪に別れ、集会の合図や非常時連絡用の鉦(延宝年間作の名鉦)も昭和十七年盗難にあった。

【郷蔵】
 度重なる飢饉に備え往時の主食たる粟稗豆類等を毎年二俵−三俵と貯蔵した共同の郷蔵が高嶋良夫氏宅に現存し、今尚八十俵余昔の姿で積まれている。「備えあれば患いなし」とか、共存共栄の構え、物資豊かな現時世においても特に銘記すべき事である。

【上太田鹿島神社】
 元来上太田は南北二百米程に亙り人家が並び、それと平行して鹿島神社の境内も二百米に及び現在は南方五十米程は畑地になっている。尚裏の新家前(地名)にも数戸があったと云われる。神社の創設は四百年前とのこと。棟札が手斧削りの点からも天正年間以前だと云う。周囲四米、高さ四十米の松の大木が松喰虫により次々と枯死に瀕したので売却し、昭和五十五年七月その身代わりとして石の大鳥居が建立された。続いて風折れから社屋の安泰を守るため、樫の大木も伐採された。春秋二回の祭礼、特に四月十五日の花見祭礼は五穀豊穣、悪疫退散を祈願しての笛、鼓、太鼓による大杉ばやし、通りあんばと壮厳なるお囃子は現在当部落にのみ続いている無形文化財でもある。又旧九月、各戸の氏神には子供達を招き、子供たちは境内の笹束もて「オンマキセンド ガラガラセンド」と神社をたたいて七廻り半、笹束を氏神様に供えて甘酒をいただき、油揚げには丸くなる程ご飯を詰めて帰る伝統的行事も昭和十五年で廃止された。(昭和十六年太平洋戦争始まる)

【豊年橋】
 上太田より岡見新田に通ずる橋は現在の位置より百米下流で所謂新田河岸場への一本橋であった。明治中期より現在の処に移り、三本橋となり、大正の初期巾四尺の板橋(青年橋と命名)となる。昭和二十八年巾九尺の土橋が龍ヶ崎土木事務所の手により竣工し、豊年橋と改名した。三十八年初めて巾五米、長さ十五・六米の永久橋となり、次いで四十六年第二次改修後、五十三年巾五米、長さ三十七米の大永久橋が完成した。上太田裏の小川は土地改良以前は屋敷添えを流れ、藤田静男氏宅地先の堰により豊年橋方面まで冠水した。所謂「せき田」の地名がそれである。真夏の暑さの中、木陰での水しぶきを浴びた想い出は誰もが残る郷愁の一つであり、又一日の汗と農具を洗いおとし井戸端会議ならぬ、堰端会議の楽しみは往時の者のみが知る事である。

【妻恋坂】
 岡見新田より県道に通ずる「切り通」は昭和四十六年開通し、前は愛宕山と道祖神とを結ぶ細い坂道であった。坂本薫氏の父実蔵氏(昭和四十九年死去八十四歳)の話によると今より八百年前、源頼朝の家来鎌倉権五郎影政が奥州征伐の砌り、鎌倉街道から人目を忍んではこの坂上に来り、尾上家の娘さんと幾度か別れを惜んだと云う恋物語りのひとこま。
 愛宕山の大樹の陰、道祖神前に佇む二人の涙ぐましい姿が彷彿として目に浮ぶ。


  出典: 「お年よりの書いた郷土のあしあと」 牛久町老人クラブ連合会編
上太田長寿会民話編集委員会(八十四歳)
昭和五八年二月一日

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