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牛久シャトーは、(現シャトーカミヤ)牛久駅東口から歩いて七・八分の所にあります。
レンガ造りのフランス風建築で、シックな赤茶色のレンガ壁、緑色の屋根、白い時計台といった配色が美しく、まさに西洋のお城といった感じです。
「シャトー」とは、フランスでは、ぶどう園を備えた優秀なワイン醸造場に与えられる称号です。
牛久シャトーは、明治三十六年(1903年)に、神谷伝兵衛が建てたものです。伝兵衛は、ここでぶどう栽培からワイン醸造まで一貫して行い本格的な国産ワインを造り出しました。
現在は、大きなワイン樽や、昔使ったワイン造りの道具などのある資料館、バーベキューのできる広い芝生、レストランなどがあり、年間五十万人が訪れる牛久の観光名所になっています。
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伝兵衛は、安政三年(1856年)三河国松木島村(今の愛知県幡豆郡一色町松木島)神谷兵助の六男として生まれ、子どもの頃の名前を松太郎といいました。
松太郎の生まれた二月十一日は鎮守八幡宮神社の祭りの日で、始まりの太鼓が打ちならされた時、神谷家の奥座敷でうぶ声をあげました。
女中のシメがうぶ湯の水を汲むと、今を盛りと咲く白梅の花びらが散って桶に落ち、うぶ湯の中の赤ん坊の顔につきました。
「坊ちゃんは花児じゃ、花児じゃ。」
と女中のシメが言うと、姉のユキも
「ほんとに花児じゃ、花児じゃ。」
と二人ではじゃぎました。
神谷家は、祭りのにぎわいと松太郎の誕生と重なって喜びにわきたちました。
神谷家の先祖は武士で、江戸時代の初めに農家になりました。代々名主をつとめた家柄でしたが、松太郎が育つ頃は貧しい生活になっていました。母と姉が内職をしているのを見て、
「おれも働く、この家がひとのものになるのはいやじゃ。」
といって母の手伝いをする松太郎でした。
母は、貧しくても神谷家の伝統と家風を重んじ、せめて子供はりっぱに成長させたいと、やさしさの中にもきびしく育てました。
松太郎は礼儀が正しく、熱心に母の手伝いもしたので「神谷の松サンは感心な子だ。親孝行者だ」と村人達はほめていました。
五歳の時、母は、実家の祖父にたのみ読書、習字、算術などを教えてもらい、その上達はめざましいものでした。
松太郎は、父といっしょに姉の嫁いだ村へ行った時、酒造りの家がみな裕福なのを見て「酒造家になろう」と心にきめ、その夢をふくらませました。八歳の時、酒だる造りの弟子として働き、次に姉の家で商業の見習をし、十一歳の時には商人として独立して、綿の仲買人、雑貨の行商と、十六歳頃までは広く商売を行っていましたが、失敗して全財産をなくしました。こんな時、兄のすすめもあって「横浜へ行って成功してみせる」と心に誓って家を出ました。松太郎十七歳の時でした。
横浜では、フランス人の経営する混成酒醸造のフレッレ商会の労働者として働くことになりました。松太郎が病気で衰弱し、命に関わるまでになった時、社長の持ってきてくれたぶどう酒を飲むと、元気が出てやがて病気はすっかりなおりました。松太郎は、ぶどう酒が体に良い事を知り、ぶどう酒を造る決心をし、いっそう熱心に洋酒製造法を修業しました。その間、明治七年四月九日には、父の兵助が死去したため、松太郎は家督相続を行い、神谷伝兵衛と名乗るようになりました。
十九歳になった伝兵衛は、横浜の会社をやめ東京麻布の天野酒店に入り酒の引き売りを始めました。引き売りに便利な樽を工夫して作り、それを車に積んで売り歩きました。雨の日も風の日も休まず売り歩いたので、得意先も多くなり良く売れました。
蓄えも出来たので、二十四歳の時、浅草の観音様の近くに酒の一杯売り屋を開きました。店の名は生まれ故郷にちなんで「みかはや」にしました。その頃の浅草は、十二軒の茶屋が賑やかになるのは縁日ぐらいでしたが伝兵衛は、信仰心の厚い土地なので将来は多くの人が集まると考えたのでした。
店のうしろの工場で、にごり酒と輸入ぶどう酒を原料とした再製ぶどう酒を造って売りました。このぶどう酒は、日本人が飲み易いように渋みをなくし甘く造ったので「みかはや」の評判は、客の口から口へと伝わり浅草の名物になりました。
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明治十八年(1885年)再製ぶどう酒に「蜂印」を、次の年には「蜂印香竄葡萄酒」の名をつけて売り出し、フランスの博覧会でも金賞に入りました。このぶどう酒の名は全国に知れわたり、ぶどう酒と言えば「蜂印香竄葡萄酒(はちじるしこうざんぶどうしゅ)」を指すようになりました。
酒の一杯売り屋は大成功を収め、伝兵衛の心の中には「日本人の飲むぶどう酒は日本で、自分の手で造りたい」という大志が一段と燃えてきました。そのためには後継ぎが必要と考えてさがしていた時、日本橋の市村金兵衛商店の店員、小林伝蔵のことを知りました。伝蔵は、山形県から上京し働きながら神田の塾で勉強した、近所でも評判の青年でした。伝兵衛は、早速市村金兵衛を訪問し、酒造りをしたことや、これからの計画などを話したあと、「まことに済まんことだが、どうしても伝蔵さんの手を借りたい。伝蔵さんを神谷にくださらんか。」と金兵衛の前に手をついて頼みました。金兵衛は、しばらく考えこんだあと、「神谷さんの志はよく分かりました。伝蔵は私の店でも必要な男ですが同じ商の仲間、承知しました。」と答え、すぐに伝蔵を呼んで話しました。
突然の話に伝蔵は戸惑ったようすでしたが、「私も主人のお陰で今日まで成長することが出来ました。主人がお許しくださるなら・・・・・。」と返事しました。
伝兵衛の工場での伝蔵は、苦労しながらも毎日よく働きました。仕事が終わったある夜、伝兵衛は伝蔵を呼びこれからのことについて話しました。「我が国ではフランス産のぶどう樹の栽培は失敗し、不可能に近いと考えられているが、これは基本的なことの研究をしていないからだ。フランスで実地に研究する必要があると思う。お前にフランスへ行って勉強して来てもらいたいが、どうか。」伝兵衛に言われた伝蔵は、酒造りもまだ出来ないこと、ましてや外国での生活のことなど不安が先走り、「二、三日考えさせてください。」と答えました。あれこれ考え抜いた伝蔵は、「不安をのり越えなければ前進はない。体当たりでやってみることが神谷に来た俺の使命なのだ」と決心しました。伝兵衛は、伝蔵の不安を少しでも軽くしてやろうと、横浜のフレッレ商会にいた頃聞いたフランスの生活やぶどう栽培のことなどを話して聞かせました。
明治二十七年(1894年)九月二十四日、伝蔵は横浜港からフランスへ向かって出発しました。伝兵衛の養女誠子との結婚式が終って三日後のことで伝蔵二十四歳の時でした。伝蔵は二ヶ月間の船の中で、伝兵衛の考えているぶどう栽培やぶどう酒造りについて、フランスで勉強して来ることを毎日ノートにまとめていました。
十一月にフランス最大のぶどう酒の産地ボルドーへ着きました。カルボンブラン村醸造場に入った伝蔵は園丁となってぶどう栽培をしたり、職工となって機械の使い方や醸造の方法を熱心に勉強しました。
三年間の約束の日が過ぎ、終了証をもらった伝蔵は、明治三十年(1897年)一月十二日帰国しました。たくさんの参考書や新しい器械、土の標本などを持って来ました。
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伝兵衛は、伝蔵がフランスから帰ったあとすぐ、苗木六千本を輸入して、試しに東京郊外の東大久保村に植えてみたところ、とても育ちが良かったので、ぶどう園を作る広い土地をあちこち探した結果、牛久の気象条件や地質がボルドーに似ていることが分り、この年の秋、ここに百六十ヘクタールの土地を買い、翌年(明治三十一年)の春、東大久保村から苗を移植し、はじめて念願の「神谷葡萄園」が誕生しました。
ぶどうの作り方はすべてフランス式だったので、「園長さん、どうしておんな作り方をするんですか。」とみんなが珍しがって聞きました。園長の伝蔵は、「平棚式と違いよく日光があたって、ぶどう酒を造るのに必要な糖分がたくさんたくわえられるんだよ。また、作業も平棚式よりずっとやりやすいしね。」と答えました。
伝兵衛は、ぶどうを作ると同時に仮醸造場を建て、三年後の明治三十四年(1901年)ここでとれたぶどうで造ったワインの第一号が生まれました。こうして開墾が進み、フランス式のぶどう畑は四十ヘクタール、ぶどう樹は十三万本に達しました。
これに自信を得た伝兵衛は、その年に本格的醸造場にいろんな設備を加えた「神谷シャトー」の建設をはじめ、二年後の明治三十六年の秋に完成させました。建物はフランス人が設計した赤レンガ造りで、二階建ての事務所、ホール、和室(現本館)、貯蔵庫、醗酵室(現資料館)の外、倉庫や作業場などで、その姿は当時の日本では大へん珍しいものでした。
また、シャトーを中心にぶどう畑や牛久駅に行く道にはトロッコのレールが敷かれ、ぶどう栽培に必要な物や収穫したぶどうを運んだり、ワインの出荷やお客さんの送り迎えにトロッコが使われました。シャトーのまわりや駅に行く道にはたくさんの桜が植えられ、そのときの桜は樹齢百年近く、見事な姿を今も保っています。
シャトー完成後はワイン造りが盛んになりました。フランス式のぶどう栽培が熱心に行われたこともあり、その品質はたいへん良く、イギリスやフランスの博覧会で金賞牌を受けたり、国内でもたくさんの賞を受けました。
伝兵衛はぶどう園経営にいろいろの工夫をしました。
働く人たちは、なるべく地元の人で健康な夫婦を採用し、三ヘクタールを一区画としてまかせ、たくさんとれたときは、褒章金を出したりして励みとしました。
また、働く人たちと園長や技師たちとで研究会を開いてみんなの意見を聞き、良い意見はすぐとり入れ、結果がよいときは褒章したり、優れた人には専門教育を受けさせるなど、人間味あふれる経営をしたので、みなよく働き「神谷葡萄園」はますます発展しました。
伝兵衛は、ワイン造りのほか、東京や北海道でアルコールやしょうちゅうを造ったり、洋酒類にも手を広げて成功しました。また、銀行や汽船、鉄道などたくさんの会社の社長や重役となり、明治、大正の経済界に大きな足あとを残しました。
こうした関係から伝兵衛には、政界、財界に多くの知人、友人がいて、東京から松方正義、榎本武揚、大山巌、児玉源太郎、板垣退助、東伏見宮、久邇宮、徳川義礼など多くの有名な人たちを招き、シャトーで園遊会を開いて、国産ワインの普及につとめました。
伝兵衛は、いろいろな事業に成功してお金持ちになりましたが、決してぜいたくはしませんでした。そして、地震や水害などで苦しんでいる人たちをみると、自分のお金を惜しみなく出して助けたり、養育園や養老院にもたくさんの物やお金を贈ったりして、世の中から不幸な人を無くそうと努めました。
また、生まれ故郷の八幡宮神社にも、常夜灯や石垣、お金などを奉納しました。松木島の人達は、今でもこの常夜灯を「お夜灯さん」と呼んで、当番を決めて毎晩ローソクを灯しながら、伝兵衛の志を永く伝えようと大切にしています。
そのほか、伝兵衛は美術品や骨とう品を集めることが好きで、中国などの値打ちのある物をたくさん持っていましたが、ひとりじめしているよりは、多くの人々に見てもらった方がいいと考え、大部分を国の博物館に寄付しました。
伝兵衛のこのような善行に対して、国からは銀杯や紺綬褒章・緑綬褒章などが与えられました。
大正十年(1921年)北海道に新しい会社を作るなど、仕事に対する伝兵衛の情熱はいつまでも衰えることはありませんでした。しかし、この頃から体の調子がだんだん悪くなり、病床で過す時が多くなりました。
そして、翌年の四月二十四日、事業への思いを残しながら、とうとう亡くなってしまいました。六十六歳でした。
国では、伝兵衛の今までの数々の功績に対して、その日のうちに十六位の位を授けました。
遺体は、伝兵衛の希望通り神谷葡萄園の中の墓地に埋葬されました。その墓地は、広さが三ヘクタールもある公園で、正面の大鳥居をくぐって参道に入ると両側に大きな灯ろうが立ち並び、広々とした芝生もあったので、遠足の小学生や村民の憩いの場ともなっていました。
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それから五十六年間、思い出のぶどう園で安らかに眠り続けた伝兵衛は、昭和五十三年(1978年)東京谷中の墓地に移されました。今、神谷公園墓地の跡には、伝兵衛を讃える記念碑だけが残っています。
牛久市では、昔ぶどう園だった土地の一部に神谷という町名を残しました。
牛久市発展の先駆者神谷伝兵衛の功績を記念し、永く伝えようとするものです。
シャトーができてから百年近くになりますが、今ではその周辺はすっかり変わってしまいました。
その昔、伝兵衛が苦労して作り上げたぶどう畑は完全に姿を消し、そのあとに住宅や大型商店が立ち並び、牛久市の中心地として発展しています。町名も「中央」と名づけられました。また、牛久駅から、シャトーの西側を通って牛久市役所に至る遊歩道は、「シャトー通り」と呼ばれて、市民や観光客に親しまれています。
しかし、このような大きな変化の中にあっても、フランス風の本館とレンガ造りのうす暗い醗酵室(今はワイン資料館)だけは当時と変わらない姿で、ワイン造りにかけた伝兵衛の情熱を静かに伝えています。
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牛久昔話は、牛久市立図書館が発行し、販売しています。
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