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 永享の乱と結城合戦で足利持氏と3人の遺児の2人が敗死し、鎌倉府に空白が生じて混乱していました。そこで、文安四年(1447)に持氏の遺児の足利成氏を鎌倉公方にして鎌倉府を再興することが認められました。そして翌年に結城氏の再興も室町幕府に認められることになったのです。やがて、鎌倉公方は関東管領の上杉憲忠と対立し、享徳三年(1454)に憲忠を殺害したことから、東国は約30年間にわたる享徳の乱に入ったのです。「多賀谷家譜」には、公方成氏の命で多賀谷氏家が主家の結城成朝と鎌倉西御門で上杉憲忠を不意打ちにして殺害し、以後多賀谷氏が成氏から重用されるようになったことが記されています。

 京都の室町幕府は、関東管領の上杉氏を援助し、足利成氏追討の命令を出ししました。足利成氏は、鎌倉を脱出して古河に本拠を構え、以来、古河公方と呼ばれるようになったのです。そして、上杉氏を中心とする室町幕府方と古河公方の奉公衆との戦乱が各地に起ったのです。

 享徳の乱の一つである信太荘の合戦は、長録三年(1459)に古河公方の軍勢と室町幕府の援助を得る関東管領上杉氏の軍勢が信太荘一帯を舞台に激戦を展開した戦いです。土岐氏は、主家の上杉氏に従ってこの合戦に加わっています。これに対して、結城氏、小山氏、宇都宮氏、千葉氏、佐竹氏など奉公衆が古河公方に味方して激しい戦いを繰り広げました。。岡見氏は同族の小田氏と共に室町幕府方側にあって、古河公方勢と戦った記録が残されています。小田持家は、この合戦で子の治部少輔・上総介や家臣の波賀彦三郎を討死させ、将軍の足利義政からの感状を得ているのです。


  
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