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久野城と桂城の間の六十塚

  
 牛久には、六十塚と呼ばれる遺構が、久野と桂の境と、井ノ岡の二ヶ所にあります。久野城と桂城の間にある六十塚には、塚と見られる遺構をおよそ50位数える事が出来ます。牛久市発行「牛久市史研究−第二号」の巻頭に掲載されている久野村の古絵図には既に桂の六十塚が描かれているので、この古絵図が作られた江戸時代前期の明暦二年(1656)よりも古い時代に築かれたものであることがわかります。

 十三塚や六十塚は、村境の道沿いにあることが多いようですが、この六十塚も久野村と桂村の境の道沿いにあります。水害や飢饉などによる沢山の死者を埋葬する場合や合戦の死者を祀る場合などが考えられますが、伝承が伝わっていないのではっきりとしたことは判っていません。この地方では、天明大飢饉があり、多くの餓死者が出たものと思われますが、これは明暦から100年以上後の事なので当りません。一方、室町から戦国期には、この辺りでも大きな合戦があったと思われるので、その時に築かれたものと考えられます。

 「東国戦記実録」と「東国闘戦見聞私記」は、戦記物(時代小説)なので歴史的信頼性が低いのですが、ここには上条城の江戸崎監物が桂左衛門とともに久野城を攻撃したとしています。戦国期の上条城の城主は大越氏なので江戸崎監物が誰なのかも判らず真偽の程は不明ですが、この合戦で討死した侍達を埋けた塚なのでしょうか?


  
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