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小田城跡航空写真(筑波町史から引用) |
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小田城は、宝筐山の山頂から南西に延びる尾根が平地に達した場所の先端を中心として作られた城で、規模は東西約1km、南北約700mある。城の中心部に東西120m、南北140mの方形の主郭がある。その周囲には、土塁と堀が廻り、北西・北東・南東の隅が突出している部分が櫓台跡と認められる。主郭の周辺には、沢山の曲輪が廃されているが、大部分は宅地化や農地化で改変され、あるいは消滅した。堀や土塁には、随所に折りや喰違いがあり、虎口には馬出しのほか枡形も多く見られる。 一方、北約1kmにある前山(標高119m)の山頂と、それから東西に延びる尾根上にも小田前山城の遺構があり、小田城を囲む長大な防禦線の一部になっている。 |
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【城館の歴史】 小田城は、鎌倉期から戦国期まで小田氏の居城であり、その始まりは小田氏の祖八田知家が文治元年(1185)に常陸守護に任命されて当地に移って居館を構えたことによると云われる。 その後、南北朝期には、当主小田治久が南朝方に属し、小田城は常陸南部における南朝方の拠点となり、北畠親房や春日顕国なども入城している。北畠親房が小田城で『神皇正統記』を執筆したことは特に名高い。 下って戦国時代の弘治・永禄年間、当主小田氏治は佐竹氏・多賀谷氏・真壁氏や越後の上杉謙信、小田原の北条氏らと抗争を繰り返した。北条氏と結んだ小田氏治は、永禄十二年(1569)の手這坂の戦いに敗れ、小田城は佐竹氏のものとなり、翌元亀元年に太田資正が城主になり、同三年に資正の子の梶原政景が城主になった。のち、佐竹氏の一族小場義宗が城主になったが、慶長七年(1602)に佐竹氏の秋田移封に伴って廃城になった。 |
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【関連図書】 : 「筑波町史−上巻」 |
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