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【概要】 椎尾城跡は、椎尾小学校の北西約500m、椎尾字掘の内にある。現在は宅地と畑地に変っているが、今なお土塁が断続している。壕跡といわれるところは一部町道に変っている。また、筑波線の敷設のために西方の一部が削り取られて中断されている。 城跡付近に椎尾城主の墓地があり、鎌倉時代の五重塔が立ち並んでいたというが、今は畑地として開墾され五輪塔などはどこかへ持ち去られたものであろうか何も残っていない。城跡に立てば名峯筑波山を仰ぎ限下に桜川を望む築城に最適のところであったと想像される。 |
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【城館の歴史】 椎尾城は、承元2年(1208)に平貞盛の後裔下野守真岡城主平国時の弟の国春が築き面積約6haと称される。国春は子宝に恵まれなかったため椎尾山十一面観音を祈念し漸く授かったのが椎尾称三郎春時であった。春時は、嘉禄元年(1225)11月求道の念やみ難く城主を舎弟の国網に譲って出家した。(この春時は親鸞上人の弟子になり真仏上人となった名僧)。 これよりさき、後醍醐天皇の建武中興となって国内平静となったが、やがて足利尊氏が叛き乱世となった。筑波山麓の山野も兵馬の巷と化して、小田城、関城、大宝城、真壁城主等相助け寡兵よく賊軍を破り椎尾城主も勤王軍に加わり戦ったが、興国3年(1342)高師冬の大軍来攻し関城、大宝城等相次いで陥り椎尾城も賊軍の手に陥り興国4年(1343)11月遂に廃城となった。 |
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【関連図書】 : 『椎尾村史』、『真壁郡郷土史』、『将門記』 |
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