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【概要】 平良兼館跡は、筑波山背面の一支脈が北面にのぴたその突端に近い高地で標高130m位のところにある。南には筑波が高くそぴえ、西には富士浅間日光連山をながめる天瞼である。北も東も自然の天瞼で、常総の平野を一望できる誠に要害のところである。館跡の平担な部分は、約1000m2あり、峯をくずして作った枡形の一の堀、二の堀も残っている。現在は山林で手入れも行なわれていない雑木林である。また山すそに館で使用したと伝えられる佳免井の井戸というものがある。 |
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【城館の歴史】 常陸大掾上総介高望王には、良望(国香)、良兼・良文・良正等数人の子があった。良兼は陸奥大掾上総介で上総国武躬郡屋形村に居たが羽鳥に荘園を持っており、この地に居るこのが多かった。そして兄弟一族は真壁、結城、筑波の諸郡に枝を連ね桓武平氏が関東に根を張っていたのである。 下総守良持は、延長16年(916)没したので、国香、艮兼が遺領を管理し、良兼は下総守を兼ねた。将門は延書18年(919)国香、良兼、良正のすすめにより京都に遊学したが、在京13年29才の時郷里下総豊田郷に帰って来た。しかし、留守中管理を頼んだ父の遺領のことで伯父国香、良兼、良正らと不和になり、しばしば私闘を展開した。 承平7年(937)8月良兼は手兵2,000を従え、豊田郷に将門を破った。将門は、同年10月妻子の弔らい合戦のため手兵8,000を率えて羽鳥に攻め上った。良兼は一族をつれて湯袋に逃げこもってしまい、翌承平8年(938、天慶元年と改元)6月病死した。 |
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【関連図書】 : 『椎尾村史』、『真壁郡郷土史』、『将門記』 |
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