つくば市 筑波城跡
    
1. 所在地 筑波郡筑波町筑波字東山244外
2. 構築者 筑波八郎為氏
3. 時期 鎌倉
4. 遺構
5. 関係地名 
 
【概要】

 筑波城跡は、筑波町役場から北へ約4km、筑波山南側中腹の東山地区の東方を僅かに下った山細の傾斜地にある。全体に南向き傾斜面を利用した段々畑(田、原野もある)で、東方はやや高く、道路を隔てて共同墓地があり、西はやぶ地、崖が多く山沢が流れ、石垣状のもの(旧宅地か?)が東西に3条走っている。中央部から東へかけては数条の段々畑の土手があるが土塁跡とは考えられない。また、現在ある「筑波八郎墓」は全く史実に根拠のないものである。いずれにしても、住居地や寺院地としては格好の場所と思われるが、城館に伴う遺構は全く見られない。筑波町史編さん専門委員及び中世城郭研究家の踏査、調査にもかかわらず、ついに確かな遺構は発見されなかった。

筑波城跡
筑波城跡略測図

 
【城館の歴史】

 筑波城は、小田城主八田知家の8男筑波八郎為氏の築いたもので、小田城の出城であった。城主筑波八郎は後に僧となり明玄と号し、筑波山中の禅寺知足院の別当となり法眼に叙せられた。筑波城の位置については、『筑波誌』に、「筑波字東山にあり」とだけ記されている。『菟玖奴波山杉田家史略年代記』の絵地図には、はっきりと東山人家のすぐ下に筑波城が示されている。筑波八郎の子孫は相継いで別当職となり在域したが、数代を経た玄朝のとき、結城城で結城氏朝父子とともに、将軍足利義教の命を受けた上杉憲実の兵と戦かって敗れ、嘉吉元年(1441)4月、氏朝父子及び玄朝は戦死し、結城・筑波両氏の一族は殆んど滅亡した。『筑波山流記綱要』によると、潤朝以後の筑波氏は不明であると記されている。したがって、筑波城はそれ以後廃城となり今日に至ったものと考えられる。
  

筑波城跡
筑波城跡地図
  

【関連図書】 : 『筑波山流記綱要』、『筑波誌』、『菟玖波山杉田家史略年代記』


このホームページは、牛久市中央に住まう私達家族が作成しています。