つくば市 小野崎館跡 (別称: 御城城跡)
    
1. 所在地 筑波郡谷田部町大字小野崎字味城731外
2. 構築者 荒井縫之介照信
3. 時期 南北朝
4. 遺構 本丸跡、土塁跡、壕跡
5. 関係地名  味城、門前、宿、立ノ下、出戸、東出戸
 
【概要】

 小野崎城跡は、谷田部町役場から北東へ約5.2km、小野川の源流あたりの小野崎地区に位置している。標高約21m、周辺水田面との比高差は1m前後である。北から西にかけて3重に掘をめぐらし、しかも内側のもの程、堀も土塁も規模が大きい。屋敷の南の堀は埋められて水田になっている。

 屋敷内は極めて広く、一般の宅地には見られない面積のものであり、土塁の周辺は雑木、笹竹が生え繁って荒れたままである。館跡の東部を町道が南北に走り、その東側は「宿」と呼ばれ住宅地になっていて、堀や土塁は全く見られない。「味城」の南も「宿」であり、西側に堀の跡が僅かに残っている。「味城」の北は畑だが、館跡の西の線の延長部分に幅5m程の細長い水田があり、その北端に土塁らしいものがあって、古い時代の城の範囲が感じられる。東部、水田の向うに「向い屋敷」があり、その北と東には水を保った堀が廻っており、北東部は、研究学園都市内に入り、昔の姿はとどめていない。
  

小野崎館跡
小野崎館跡略測図

 
【城館の歴史】

 荒井家の先祖は、牛久、足高、谷田部の岡見家と同じで、清和天皇の末流武蔵守満季の子、熊王丸の次男に栗原式部という者があり、その17世の孫栗原太郎信勝の7男荒井信厚を祖とする。戦国時代には荒井縫殿介照信は、小野崎城により、小田天庵氏治に仕えていた。小田氏が佐竹氏の攻撃を受けたとき、照信は土浦の間部の台を固めていたが、小田氏滅亡後は下総の布川城を頼って落ちのびた。照信の子豊前は、小野崎に帰り、砦の本丸の跡に家を構えて帰農した。

 文禄の検地の折、荒井豊前は小野崎何の筆頭として名請けした。当時の小野崎は、微細な耕地が多く、荒井氏は金村の4割に当たる土地を所有していたといわれる。荒井氏の邸は味城と呼ばれているが、これは江戸時代に小野崎が細川領になってから、藩主に遠慮して改めたもので、古くは御城と呼ばれていたといわれる。
  

小野崎館跡
小野崎館跡地図
  

【関連図書】 : 「谷田部の歴史」


このホームページは、牛久市中央に住まう私達家族が作成しています。