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【概要】 福田城跡は、阿見町役場から南へ約7kmに位置している平山城である。小野川支流の乙戸川左岸側にある福田台地の縁辺部にあって、標高約20m、低地との比高差10m前後を測る。字古城が本丸跡とみられ、それをとりまいて字本郷、さらに字十郎山、原山、掘、高台がとり囲んでいる。字古城には土塁、掘、腰曲輪などが遺存し現況山林になっている。 そのほかについては大部分湮滅している。わずかに字掘の元屋敷に土塁の一部がみられる。本跡の北々西約1km先に下小池城跡がある。 |
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【城館の歴史】 福田城については、他の中世城館と同じく資料に乏しく判然としない。福田地区の伝承によれば、戦国時代に、福田城は隣の小池城から帯解きの夜に餅を搗いていた時、不意討ちを受けて落城したと言われている。(注、現在でも帯解きに餅を搗かない一族があり非常に興味深い。)この時に城主(不明)は滅びたが、家老であった知久氏(信濃国出自)は生き残ったと言われ、現在に至っているものと考えられる。 小池城は、岡見一族であるから、そこで新たに福田域主になったのは岡見一族の福田豊俊左衛門であろう。宝永7年(1710)の『書抜留帳』(野口家文書)によると、「福田城は、天正年中江戸崎城主土岐大膳太夫殿方、土岐作兵衛居城の由」と記されている。この頃になると、福田城は岡見の領から土岐の領に帰した事が窺われ、『土岐家家臣控帳』の江戸崎六人衆(党か)の筆頭山中氏(のち福田に変わる)の一族と考えられる。今も、山中家が本丸付近に昔から在住している。 |
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【関連図書】 : 『紀州岡見系図』、『関東幕注文(上杉古文書)』、『野口家文書』 |
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