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多気城鳥瞰図(筑波町史から引用) |
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【概要】 多気城跡は、筑波町役場の北にある標高129mの多気山に構築された山城である。遺構から見ると、囲郭形式は多郭型の雑形で、山頂とその周辺の内壕はかなり明瞭に認められ、頭上付近の城の中心部はかなり広い平地となってよく保存されている。 多気山南麓は3つの寺院と墓地、採石場、新住宅地などで現在殆んど認められないが、北部山麓はかなりよく外壕が保存され、西部は山と山の天然の深い谷合いとなり、また、周囲の山麓の数か所には大きな池があり、防郷上及び灌漑用の役割をしていたのではないかと考えられる。 |
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【城館の歴史】 平維幹は平貞盛の養子で、もと水守郷にいたが、後にこの多気山に移って城を築き、「多気太郎」と称し、常陸大掾に任ぜられた。維朝以来その子孫はそれぞれ常陸権介や大掾を襲いだが、6代義幹の建久4年(1193)源頼朝が富士野に狩をしたとき、曽我十郎祐成、同五郎時房の仇討事件で世の中が騒然としている隙に乗じ、八田和家は多気氏を滅ぼそうと企て、知家が義幹を討とうとしていると偽って、義幹に城の防備を固めさせた。 その後、八田知家は義幹に源頼朝への見舞のための同道を遅らせ、義幹は頼朝に反逆を企てているとざん言したので、驚いた頼朝は知家と義幹の2人を目の前で対決させたところ、義幹は城の防備を固めた事実と兵を集めたことが陳謝できず、とうとう頼朝の怒りに触れて所領は悉く没収され、その身は岡部権守泰網に預けられ、維幹以来6代義幹で多気氏はついに滅亡した。それ以来の多気城は不明である。 現在、城山の南麓を東西に流れる裏掘は、多気城の外堀として多気太郎(義幹)がつくったものと伝えられているが、史実に根拠のないことである。 |
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【関連図書】 : 『筑波郡郷土史』、『筑波町史』 |
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