つくば市 手子生城跡
    
1. 所在地 筑波郡豊里町大字手子生城の内1070外
2. 構築者 八田知重
3. 時期 室町
4. 遺構 本丸跡、土塁跡、濠跡
5. 関係地名  陣屋、大門、馬場、城の内
手子生城跡
 
【概要】

 手子生城を挟む東西約500mのところを西谷田川とその支流が南流し、城跡の南約1kmの地点で合流している。城跡はこの低湿地の中を南に突き出た台地上に築かれたものである。外掘といわれる壕が南と北の部分に残っていて、東と西にはその跡らしい低地がある。これからみて城域は、東西約300m、南北約320mである。内壕は大部分が残っていて水をたたえ、東北端から流れ出ている。内掘の内部は、東西約130m、南北は広い部分では約100mである。南部には、外堀を囲んで土塁が残っていて、土塁間の幅約13m、高さ約1mである。

 なお、土塁の基部(壕の下約2m)に直径20cm位の松の杭木が20〜40cmの間隔で打ち込まれているとのことである。本丸には高さ5〜6mの急勾配の土塁が続いていたが、壕を埋めるために崩されたらしく現在は殆んど平担で畑地や水田になっている。 

手子生城
手子生城跡略測図

 
【城館の歴史】

 手子生城は、常陸小田氏の旗本城で、正治年中(1199〜1201)常陸守護職八田筑後守知家の子知重の築いたものと伝えられる。建長年中(1249〜1256)には菅谷孝久、正平年中(1446〜1370)には赤松某という人がいたという。小田14代大永2年(1522)矢口主膳正治重が若挟守に任ぜられて手子生城主に入って城主となり小田家を守った。その後、天文から天正年間にかけて代々城主がかわった。小田氏治が佐竹義宣に敗れて小田城が落城したが、その時に手子生城も落城した。天正16年(1588)に菅谷範政が土浦から国替となって手子生城主となった。範政5代範平の時、元禄11年(1698)遠江国に移り手子生城は廃城となり、以来旗本堀田大五郎の知行所となった。(注 矢口治重16代矢口良雄氏の調査資料による。)
  

手子生城
手子生城跡地図
  

【関連図書】 : 『東国闘戦見聞私記』、『豊里町小史』、『上郷史資料考』


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