つくば市 谷田部城跡
    
1. 所在地 筑波郡谷田部町字駒形3952-2外
2. 構築者 不明
3. 時期 戦国
4. 遺構
5. 関係地名  駒形、櫓下、搦手、二の丸、中城
谷田部城跡(谷田部小学校)
 
【概要】

 谷田部城跡は、東・西谷田川に挟まれた成井台地の、旧谷田部中学校敷地を中心として存在したといわれているが、現在は住宅地と化し、僅かに城跡に関係のある地名が残っているのみで、その他いっさい不明である。
 


谷田部城跡とその周辺

 
【城館の歴史】  円福寺記録(多賀谷氏)

  「若森城を構え、北条町を焼き、小田城を攻むるもおちず、次いで谷田を攻略す。」
 諸族譜(多賀谷氏による岡見の記録)

  「天正8年、氏照、氏邦300騎で谷田部を攻め径伯敗死、岡見治広、宗治、岡見五郎左衛門、いったん谷田部城をとるも重径本隊が攻撃再びとりかえす。」
  「天正17年、岡見治広、谷田部を攻め白硲間に戦って勝つ。」

 以上のことが「新編常陸国誌」には、
「元亀元年、小田氏の家臣岡見頼忠が居城としていた。その頃下妻多賀谷政径、径伯兄弟の攻撃を受け防戦に努めたが落城し、多賀谷径伯の居城になった。その後天正8年、岡見頼忠は、弟の牛久城主、岡見知義と共に北条氏照、氏邦の支援を得て、谷田部の多賀谷氏を攻めたて径伯等を殺したが、多賀谷政径の子重径によって再び敗戦の将となった。谷田部をとりもどした重径は、渡辺越前守、平井手賀守等25人を置き、谷田部を支配した。その後天正17年にも、岡見治広が谷田部城奪還をはかったが成らず、慶長5年、関ケ原合戦後、徳川家康によって所領没収されるまで、多賀谷の谷田部支配は続いた。徳川に入り、領主細川興昌は陣屋を集落に続いた低地に設立したため廃城になった。」
と記されている。
  


谷田部城跡地図
  

【関連図書】 : 『新編常陸国誌』、『谷田部の歴史』


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