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【概要】 小張城跡は、伊奈町役場から北へ約2.1km、小貝川の低地を望む洪積層台地(いわゆる筑波稲敷丘陵)の先端に位置している。東南の方向、同じ台地の続き約2kmの所に板橋城跡があり、更に東へ続く台地の末端部に足高城跡がある。現地は、一帯が平坦な畑地であって、土塁、濠等の跡は全く見当たらない。南端は、急崖をなして狭い谷津に迫り、北端部と思われる部分となって東西に延びている。 南端の三の丸跡と思われる所に小学校がある。そこと谷津を挟んだ台地に、4代目城主といわれる松下石見守重綱の位牌や石見守に関する石碑などのある菩提寺(葛松山高雲時がある。 |
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【城館の歴史】 小張城は、天正年中(1573〜1592)に小田氏の臣従四位上権少将只越尾張守善久が、その居城として構えたものである。以後、平手伊賀守、安岡豊前守と城主が相次いでかわり、4代目の城主として松下石見守重綱が居住した。 只越全久は、多賀谷氏との戦いに敗れて死亡したことになっているが、実際は身代わりであり、岩手県へ亡命し、その子孫が出家して小張へ帰り、現在の小張西念寺の住職となっている。平手、安岡両城主のその後については詳らかでない。 松下家は、人皇第59代宇多天皇の第2皇子敦実親王から出たものといわれ、石見守重綱は天正七年(1579)に遠江国に生れた。豊臣秀次に仕えたが、慶長三年(1598)から東照宮に仕えて、石見守と改めた。慶長八年(1603)に小張城主となり、元和二年(1616)まで13年間、小張城を居所とした。元和二年(1616)3月、下野国那須郡に移され、加恩あって2万8千石を領し、島山城に移り、この時小張城は廃城となった。 |
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【関連図書】 : 「東国戦記実録」 |
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