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【概要】 伊奈町役場から北東へ約2.3km、小貝川支流中通川の左岸台地(標高約20m)上につくられた防御用の平山城である。小貝川に面する低地に続く支谷にはさまれた標高約10mの丘陵の突端に位置し、三方を崖とする要害である。 元禄から江戸期にかけて、国宝の板橋不動尊の門前町として賑わい、飲食店、旅籠などと共に町並みが益々広がっている。城跡はその3分の2が宅地化し、遺構として名残を止めるものは、約10mの土塁と、仕置場(首切場)と呼ばれる一角、古井戸、空掘の位置(今は無い)馬場(ばんば)跡ぐらいである。 |
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【城館の歴史】 天正十一年(1583)二月、下妻城主の多賀谷重経は、足高城を攻略するにあたり、先ず板橋城を毫下におさめようとし、白井善久に兵2000余騎を添えて攻撃した。時に、板橋城には300人足らずの兵しか居なかったため、城主の月岡玄蕃(第3代)は、白井軍と戦うことの不利をさとり、戦わずして降伏した。これにより、月岡玄蕃は、豊田の糟内へ遣わされ、板橋城は、青木治部・豊島日向が守ることになった。 天正十六年(1588)に牛久城の由良信重の攻撃を受ける。板橋城を守る青木治部は豊島日向及び小張城から退いてきた大山備前・河田出羽等と共に激しく由良軍と戦ったが、城中に火を放たれ、しかも寄せ手は数知れぬ大軍であったため、士卒の命を助けるべく遂に降伏することになる。その後、由良信重の命により、青木治部・河田出羽等は多賀谷重経攻撃軍に加わることになる。 |
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【関連図書】 : 「東国戦記実録」 |
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