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【概要】 福原城跡は、水戸線「ふくはら」駅前の「堀の内」といわれる山裾の台地上にあり7000m2ほどの面積を占める。国道50号線バイパスのため山裾に面した北の部分が削られている。水戸線に沿って流れる堀川は福原城の堀の一部と考えられる。現在西側の山裾に堀の一部と考えられるところが残っている。城跡は階段状に整地された曲輪の形が残っていて、1段目が宅地、2・3段目が畑と宅地になっている。井戸跡には井戸粋が残っているが昔は水があふれていたという。館は3段日の広い所にあったと考えられ、竹やぶの中に善九郎塚とよばれる供養塚がある。 |
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【城館の歴史】 元久2年(1205)下野国宇都宮の領主宇都宮氏が常陸に勢力をのばした時、笠間郷は塩谷朝業の子時朝の支配に入る。しかし、時朝が幼少のため副惣として仕事をしたのが稲田に館を設けた稲田氏であったという。稲田新九郎頼重は親鸞に帰依し、草奄の別当となったので領主権を弟の善九郎に譲った。善九郎は福原柊木山の麓に館をつくったが、これが「福原城、善九郎館」とよばれているものである。記録によると明徳2年(1391)の熊野山願文に福原常陸介朝宗の名があり、また弘治2年(1556)源慶院の記録に「福原城守護の城主福原善九郎」とあることから、福原氏が代々ここに住んでいたことがわかる。しかし、福原氏の系図が確認されていないので代々の城主名は不明である。 福原氏は、この柊木山の麓城「福原城」のはかに、棟峯に山城を築き「棟峯城」とよんでいる。南北朝時代、常陸における北朝方の佐竹氏と南朝方の小田氏や笠間泰朝らが争った時の城として名が出てくる。岩瀬町の秋山家文書に、「新治郡棟峯城主福原氏」の名が出てくる。 |
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【関連図書】 : 『笠間城記』 |
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