岡見系図

  

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 この系図は、江戸時代に岡見市郎久映(足高岡見家の当主)が編集した「旧記集覧」から源姓岡見氏と平姓岡見氏の系図を、筆者が組合わせて編纂したものです。又、系図の中から、岡見治資岡見治広岡見頼勝岡見宗治の記述を掲載しました。
 


  

【旧記集覧】
  

岡見治資
 (牛久城主)
母、志田氏 岡見弾正忠
母方の氏を名乗って志田弾正と云へり。後、岡見氏に養われて岡見氏を名乗ると云う。
一説に岡見氏の親戚とも云へり。何れが是なるか知らず。
常陸国河内郡牛久城を築いて居る。一説に、初めは信太郡小坂城に居るとも見えたり。是否を知らず。小田讃岐守氏治の先鋒として太田美濃入道三楽斎と、筑波山手這坂に戦い、軍敗れて討死。年月詳ならず。愚、按ずるに元亀元年十二月廿八日ならん。或説に、永禄六・七年とも、又は天正元年とも記せるは信ずべからず。
 
岡見治広
 (牛久城主)
岡見彦五郎 庄兵衛 治部大輔
法名 峰山道雄居士
父、岡見治資戦死の時、幼弱なるをもって、岡見越前守頼勝に養育せられる。故に越前守をもって父と定むと云へり。成長の後、牛久城主たり。妻は常陸国信太郡江戸崎城主土岐大膳大夫治英の娘にて、すなわち越前守の姪なり。
天正中、小田原の北条家に従い戦を励む。北条陸奥守氏照よりの文書一通が次男富重の子孫の家に残れり。北条氏滅亡の後、江戸崎に潜居する。間もなく結城秀康卿へ召されて越前へお供し、元和三年四月十八日越前において卒する。
  
岡見頼勝
 (若柴城主)
実は常陸国信太郡江戸崎城主の土岐美作守源治頼の息子
初名、縫殿助(但、詳ならず)岡見越前守入道伝喜
法名、高源寺殿月潤自皎大禅定門
按ずるに、或説云、岡見左衛門佐早世に依って、頼勝が左衛門佐の後室へ再縁して岡見氏を相続せりと云う。是否は詳ならず。
又、按ずるに、頼勝は大永元年に生るる。然らば左衛門佐が卒去せる永禄元年の頃は、頼勝三十八歳に当れり。
頼勝、はじめは常州筑波郡谷田部城に居り、松本備前守政信の男の松本右馬允某より天真正流の剣術を受得たりと云う。
按ずるに、関東古戦録に云う。元禄二年八月、結城左衛門督政勝卒。その子息、中務大輔明朝が疱瘡を患う。小田氏治はその虚に乗じて同九月六日に結城へ発向する。この時、岡見主殿助が従へり、とあり。又、元亀元年某月、多賀谷修理大夫政経、谷田部城を攻む。城主の岡見主殿助は拒みかねて牛久城へ奔る。長臣の岡見因幡は城に留まって戦死す。多賀谷政経の弟淡路守経伯をして守らしむ、と常州下妻香取宮円福寺の記録に見え、右戦録にはこの事粗見えたり。然るに、伝喜入道の実子の主殿助は天正八年三月に谷田部城にて戦死。二一歳と聞えり。彼これを推し考えるに、永禄・元亀の間に主殿助と号せるは伝喜入道の初名にて、後に越前守と改むるなるべし。初名を縫殿助と記せるものは、恐らくは誤りならん。縫殿助・主殿助相似たる名なる故、混乱せるならん。
頼勝は後に筑波郡足高城に居れり。或説に隠居の後、河内郡若柴城にも居ると云う。是否は詳ならず。按ずるに、天正の末年に足高にありて、中務大輔宗治と共に多賀谷氏と防戦する。然るに宗治といささか不和なる故あるため、遂に多賀谷氏の陰謀にあざむかれて内応して天正十六年三月落城の時、又多賀谷氏の為に佐留布多山にて横死也と云う。是否を詳にせず。この時六十八歳。
  
岡見宗治
 (足高城主)
実は左衛門佐の子と云へり。但し家譜にはこの事詳ならず
岡見中務大輔。浪人後、太郎左衛門
法名、決叟玄勝禅定門 但し、詳ならず
内室、北条大炊助某の娘
宗治の履歴、家伝に記する所は別録の如しと云えども、古代の記録なる故に委しからず。久映、今考えるに、宗治は弘治三年に生れるや。然らば永禄元年左衛門佐卒する時は、僅かに二歳と見えたり。成長の後に越前守に嗣て足高の城主たり。
天正年中、小田原の北条家に属す。同五年某月、北条氏直、軍を出して、小田城に居れる梶原美濃守資晴を攻め、師をかへす時に、暫く駕篭を足高・牛久等に停め、多賀谷氏を防禦の事を約して去る。この時、宗治二十一歳なり。
天正八年三月、北条陸奥守氏照、常州谷田部に発向して、多賀谷淡路守経伯を攻む。この時、岡見宗治、岡見治部大輔治広(牛久城主)、只越尾張守某(岩崎城主)、月岡玄蕃(板橋城主)、只越入道全久(小張城主)等と共に嚮導たり。岡見五郎右衛門(主殿助の子也と円福寺記録に、左兵衛家の旧記には治広の弟とあり)先登す。この時谷田部城陥り、城主の経伯、並びにその子の多賀谷彦六郎某戦死せり。時に多賀谷修理大夫重経、下妻より出馬して、後援を成すの処に、城既に陥れると聞きて、大いに怒り、北条勢と力戦す。氏照これが為に敗走し、城再び多賀谷が手に入る。この時、伝喜入道の実子、岡見主殿助某戦死すと云へり(按ずるに主殿助、この時二十一歳。然る時は五郎右衛門、父の主殿助とは別人なり)。この時、宗治二十四歳。
天正十四年某月、多賀谷勢は足高城を攻める。城堅固にして敵入ること能はず。時に、岡見治部大輔治広、高城源次郎厚胤則(或曰く、治部少輔とあり、下総国小金城主)、豊島参河守時安(下総国布川城主)、若柴民部少輔某(常陸国若柴城主)等後援なせり。城兵も打出して力戦する。多賀谷勢敗走せり。この時、宗治三十歳。
天正十五年六月十六日、多賀谷重経出馬して、再び足高城を攻め、鬼怒川の堤を決壊して、水を城に灌かんとする。城兵堅固に防戦をなし、且つこの時も若柴民部後援を成す。多賀谷重経、遂に敗軍し、多賀谷信濃守某を始めとして、窪谷能登守某、吉羽玄蕃某等、その外宗徒の者共、都合二十余人を討取れり。北条氏照、書を贈って、防戦の堅固なるを感賞す。この書をはじめ、氏照よりの感書書簡等十余通今猶存せり。小田氏治入道天庵よりの書簡その外の古文書、これ亦、ともに存せり。宗治この時三十一歳。この年十二月十八日、長臣、栗林下総守義長(初めは次郎と号せり)病卒(五十四歳と云)法号を千樹院殿雪吟桂伯大居士と云(義長の子孫常陸国筑波郡栗山村に住し大徳角右衛門と称す、農家なり)。栗林義長は、若栗城主にて、岡見家の股肱たりしに病卒に依って、武威の衰えと成しと聞える。
天正十六年十二月、多賀谷勢、又足高を攻む。これより先に多賀谷重経、木内源兵衛某に命じて、謀略をもって伝喜入道を誘い、内応を成さしめ、木内の兵を密かに城内に入れ、火を瑞源寺(岡見家の菩提所)に放つ。故に、三月、城遂に陥り、宗治間道を経て牛久城に走る。長臣、寺田山城某は城に留まって戦死す。伝喜入道、又佐留布多山にて横死、或説には入道、木内とともに足高城を守るとも云う。是否を知らず。或説云、足高城普請の時、宗治怒る事あって、岡見半兵衛某を手討にせり。これより後、入道、宗治と不快にして、遂に多賀谷に内応ありと云う。是否詳ならず。宗治、この時三十二歳。この後、多賀谷氏しばしば牛久城を攻むる。遂に攻め落とす事能わず。
天正十八年四月、小田原北条家が滅亡し、太閤秀吉公、奥州まで馬を入れらる。この頃牛久没落。城主治部大輔治広は、信太郡江戸崎の辺りに忍び居、宗治は下総国相馬郡宮和田の辺りに忍びおると云う。

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