岡見文書

  

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 岡見氏の古文書「旧記集覧」は、江戸時代の岡見家の当主久映という人物が岡見氏の古文書を集めて編集したもので、伊奈町史の古代・中世資料編に掲載されています。天正期の牛久岡見氏の当主は、治部大輔治広で、足高岡見氏の当主は中務少輔宗治で、二人は「又甥」の関係にあり、牛久岡見氏が本宗として、常陸南部に勢力を伸張させていたようです。

 岡見氏は、筑波の小田氏から分流しましたが、小田氏が没落してからは小田原の後北条氏と同盟し、多賀谷氏と激しく戦ってきました。そして、天正十八年に豊臣秀吉の関東攻めで、岡見氏は後北条氏と共に牛久城を去りました。
 

岡見文書「旧記集覧」
岡見文書「旧記集覧」(伊奈町史ー資料編一を引用)
  

【旧記集覧】
  

常陸国牛久城主の岡見弾正大夫は、本来、志田にて候。志田弾正と申す人、岡見の婿養子となり、岡見の家を継ぐ。そもそも岡見の家は源氏にて、常陸国の小田源氏と申す一家が別れ、岡見と申し候。岡見治部大輔は弾正大夫の惣領なり。
  
岡見弾正大夫は、永禄始年中に太田三楽が越後に味方して常陸国筑波山に出陣あり、小田氏治は太田三楽を攻め取りたき由を岡見弾正に相談し、岡見弾正が「当年は軍の準備が不十分にて候へば明年になさるべし」と再三申し候えども、承知無く出馬され、岡見弾正も止む無く先乗りいたし、極月十八日の夜半過に、筑波山の手匍匐坂(てばいざか)と申す一里ばかりある坂を夜討に攻め上る。太田三楽は兼ねて用意のことに候へば、山上にて軍配候て、激しき合戦あり。岡見勢、山を八分登り候て、運敗れ味方散々の討死。「岡見弾正、小田氏治に頼られ先乗りし、只今討死」と名乗り大石の上にて生害。岡見弾正の家来共は弾正の首を敵に取られず、牛久の城へ帰り遣わし候。小田氏治は居城を敵に取られ、城中へ入る事ならず。小田氏治の家来に菅谷馬之助と申す者の城へお入りにならんと致されども、心変わりして小田を入れず。小田氏治の家来の水谷、皆川、山川などと申す者は出陣さえ致さず。小田氏治を見限り、氏治はそれより江戸崎と申す所に浪人にて忍びおられ候由。
  
岡見弾正大夫の惣領は彦五郎と申し、後には岡見治部大輔と申す。彦五郎、十歳に不足候故に一家の内に後見いたし候者有り候へば、彦五郎が成長の後まで城の本主と致さざるように相見え申し候。家来共、折を見て後見の人を追い、彦五郎を守立て申し候。
岡見中務は彦五郎の甥にて候。この者、彦五郎に従い、足高の城に居申し候。中務の親父は下妻の城主で多賀谷修理大夫と一味にて、彦五郎とは敵になり申し候。彦五郎、後に治部大輔と申し候ふて、下妻の多賀谷修理大夫と十九年合戦有り。治部大輔と修理大夫とは親戚にて候。土岐ト全と申す人の婿にて、始め、書状を通して吟味、互いに不足が出来、合戦に及ぶ。下妻と牛久とは隣接に候ゆえに、互いに地の奪い合いが度々有り。足高に岡見中務大輔居申し候所へ、度々攻めかけ来候へども、中務、随分と実力ある者なれば、敵大勢攻めかけ候へども、防ぎ叶わぬ時は牛久本城へ返し候ふて加勢を受け、或時は下妻へ攻寄せ、寄せつ寄せられつつ、十九年の合戦に不覚も無しの由。
  
天正年中、小田原の北条氏政・氏直に頼り随身申し候。関東は、おおかた小田原へ随身のところ、佐竹義重は北条に随身せず敵対の様子に候間、佐竹打出し候はば、治部大輔罷り出て合戦致す約束で加勢も遣わすべき様子に候。一度、"かうのたひ"にて対陣有り、早々小田原へ注進、佐竹も引取る。その後、小田原と和解にて合戦が無しの由。その後、天正十八年、小田原が没落の時、常陸国の面々、早々降参。然るところ、岡見治部大輔・多賀谷修理、その外にも御礼に罷り出ず。城を立ち退き申し候後に、治部大輔の惣領に源五郎と申す者あり候。その後名を五郎左衛門と改、権現様(徳川家康)へ召出され、知行九百石を下し置かれ候。二代罷有り候。二代目五郎左衛門は大御番組頭を務め、二条在番の節に御番所で病死。倅が無く断絶申し候。治部大輔は、城を退、江戸崎と申すところに数年罷り在り。後に治部大輔は越前黄門様(結城秀康)に御呼ばれになり、越前福井へ罷越、御合力五百石に足軽二十人、無役の手引きと仰せ下され、折々御話相手に罷出候。越前少将殿(松平忠直)御代に大阪御陣後、越前にて病死。
  

岡見文書・旧記集覧(伊奈町史 資料編一より引用)

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