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小田氏治(天庵)は、天文十七年(1548)に父政治の死去によって家督を継承しました。家督継承当初においては、佐竹氏と同盟しつつ、東に隣接する大掾氏、西に隣接する下総結城氏と対立するという状況にありました。弘治元年(1555)になると、結城氏、大掾氏、は小田原の北条氏を頼っていったので、小田氏治は北条氏から直接攻撃をうけるようになりました。そして翌年の弘治二年四月の海老島合戦では敗北して一時的に本拠の小田城を捨てて、宿老菅谷氏の本拠である土浦城に後退しています。 永禄三年(1560)九月になると、北条氏に対抗する越後の上杉謙信の関東侵攻がみられ、翌年の永禄四年には甲斐の武田氏も西上野へ侵攻してくることになり、関東はにわかに強大な戦国大名同士の激突の舞台と化していきました。
小田氏治は、上杉謙信の関東侵攻に際してはその旗下に属し、一族の小田中務少輔、従属領主の筑波氏・柿岡氏・岡見氏、そして家臣の信太氏・菅谷氏等を謙信の小田原攻めに参陣させています。しかし、同五年七月になると一転して北条氏に従属し、北条方であった結城氏・下野の那須氏等と同盟し、逆にそれまで同盟関係にあった佐竹氏とは対立関係になりました。更に同六年になるとそれまで北条氏方であった大掾氏は逆に佐竹氏に従っていき、小田氏治をめぐる政治状況は、北条氏・結城氏・那須氏等と結び、上杉氏・佐竹氏・大掾氏・真壁氏等と対立するという構図に大きく転換することになりました。 しかし、永禄十年十月になると再び佐竹氏は上杉氏と同盟し、氏治との抗争が再開され、同十二年に入ると、北条氏が武田氏との抗争を展開したことの隙をつくようにして、佐竹氏方による小田氏治への攻撃は激しくなり、正月には最前線に位置した海老島城を攻略されています。 この段階での小田氏治の勢力範囲は、土浦・木田余・戸崎・宍倉・谷田部・東林寺・牛久・豊田・土岐(江戸崎)があります。この他にも中郡・小栗・海老島・片野・柿岡・筑波があったことが知られていますが、この内、中郡・小栗は結城氏に、海老島・片野・柿岡は佐竹氏と真壁氏によって、抗争の過程において攻略されています。なお、小田氏治の家臣の居城は、土浦(菅谷政貞)・木田余(信太伊勢守)・戸崎(菅谷次郎左衛門)宍倉(菅谷右馬允)があり、自立的な城としては、筑波(筑波大夫)・柿岡(柿岡刑部大夫)・牛久(岡見山城守)・谷田部(岡見治資)・豊田(豊田左衛門尉)・江戸崎(土岐治英)が小田氏に従属していたとみられます。 |
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−牛久市史料(中世T古文書編)を参照− |
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