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  牛久市史(中世編)
  

15世紀末から16世紀半ばにかけた戦国初期の牛久周辺地域は、岡見氏・土岐原氏等の地域勢力が台頭しつつありました。15世紀末に河内郡岡見郷を本拠として小田氏から分流したと思われる岡見氏は、16世紀初頭における小田氏の発展にあわせ河内郡中央部から北部に勢力を広げ、部分的に信太荘にまで進出しました。信太荘では、江戸崎城を拠点とする土岐原氏が、信太荘惣政所職を梯子に勢力を強めており、家督継承をめぐる混乱から一時勢力を減退させたものの、16世紀半ばには、その荘域を越えて東条荘・河内郡馴馬郷周辺にまで進出を遂げています。この為土岐原氏は、南進を図る小田氏と激しく対立しました。大永三年(1523)三月には東条荘の「屋代要害」をめぐって小田政治と土岐原治頼の間でかなり激しい合戦が行われています。

享禄年間以降、天文十年代にかけて、小田氏は活発な軍事的行動を起こしています。享禄四年(1531)二月には、江戸道秦を府中鹿ノ子原に敗走させたとされ、天文六年(1537)・十六年(1547)には、多賀谷氏と結んで結城氏と戦い、天文八年(1539)には下野那須氏の内紛にも介入しています。

しかし天文十年代後半に入ると、小田氏をとりまく政治情勢は大きく転換していくことになります。天文十七年(1548)には、多賀谷氏は結城氏に出仕することになり、以降小田氏と鋭く対立していくことになりました。又、小田氏の北方に位置する佐竹氏が、徐々に無視できないものになってきました。それまで小田氏と親交を保っていましたが、常陸北部の平定を図った佐竹氏は、南常陸への圧力を強めてきたのです。

更に重要な事として、小田原北条氏の台頭があります。北条氏は、大永四年正月に扇谷上杉氏の居城である江戸城を攻略し、武蔵進出の重要な足がかりを得ました。更に天文七年には、国府台合戦において子弓公方を滅亡させ、天文十五年(1546)には、河越合戦において古河公方・山内上杉氏・扇谷上杉氏を敗走させました。こうした動向にに対し、小田氏が具体的にどのようにかかわっていたかは不明ですが、以後、佐竹氏・北条氏・越後上杉氏とのかかわりは、小田氏にとっても岡見氏にとっても不可避のものになっていきます。

−牛久市史料(中世T古文書編)を参照−

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